ミッツ氏の櫻井翔評を読んで。櫻井翔には闇があるか?10年来のファンが本気で考察。

ミッツ・マングローブさんの記事読んだ。


櫻井翔は闇が深い。と。


どうだろう。


たしかに彼はあまりに清く正しく清廉潔白に見える。

あまりにも素晴らしすぎる、代え難い確かな実力を持っていると思う。


だから人は逆に、きっと何か深い闇を持っているのだろう、だってこの人も人間なのだから。と憶測するのだ。


その憶測に私も共感する。あまりにも完璧すぎるのだ。

これで裏でも好青年のままなら、それはもう人の姿をした“何か”なんじゃないかと思うから。

例えば神のような。


だから、私も、何か底知れぬ闇があるのだろうかと、思うこともある。だが…10年間、彼を追いかけ続けて思うのは、彼は底知れぬ程にお人好しで優しい人間だ、ということ。


彼は例え、番組の企画のためであろうと“嘘も方便”が言えない男だ。

他人のミスを決して責めず、自分が道化役を引き受けて笑いに変えられる男だ。

どんなに忙しくとも、後輩からの誘いは決して断らず、必ず時間を取り、真摯に向き合う男だ。

必ず先輩を立て、自分は一歩スッと引く姿勢を忘れない男だ。

いつも、思いやりと厳しさを忘れぬ男だ。

自分はどんなに辛くとも弱い姿など見せないくせに、他人のために涙する男だ。


口で上手い事を言って、誰かを騙すことは簡単だ。誰かを適当にあしらう事も簡単だ。問題から目を逸らす。社交辞令でその場を濁す。

そんな、誰もがやりがちな“逃げ”を絶対にしない。いつも真摯で真面目で、自分に酷く厳しい。


それが櫻井翔だ。


もし、これ程までに真っ直ぐな人間の姿が、芸能人としての仮の姿であり、すべて偶像で演技だとしたら。間違いなく彼のアカデミー賞最優秀賞受賞は確実だと思う。それ程までに彼の姿は人を惹きつけ、尊敬を集める。


idolという英語には「偶像崇拝」という意味があると聞いたことがある。もしかしたら崇拝を集める櫻井翔も“偶像”かもしれない。


だが私は、10年間櫻井翔を見続けて思う。彼は“努力をし続ける事ができる”という素晴らしい才能を持っているが、彼は、実は、とても不器用だ。


私は「神様のカルテ」という作品で彼の演技を深く知ったが、その際衝撃を受けた。

演じたことのない役を前に、自分の本来の性格さえ忘れてしまいそうになるほど思い悩む姿。

それはバラエティーでいつも軽妙なトークを弾ませる器用な姿とは正反対の姿だった。

初めて私はこの時、あぁこの人も人間なのだ、私と同じように悩むのだ。と感じた。電流が走るような衝撃だった。


私は、彼の誠実で真っ直ぐで厳しく生真面目な性格は、彼本来の姿なのだろうと思う。彼に闇があるかどうか、それは分からないが、彼も人間である。

私と同じように、悩み、苦しみ、壁を乗り越えて生きる人間だ。ただ彼は「努力し続けることが出来る」という類稀なる強靭な才能を持っているから故に、彼は彼のままでいられるのだろうと私は考える。


Hip Pop Boogieという、彼がラップを書いたソロ曲がある。若き頃の彼が書いた、不甲斐ない大人への、社会への、痛快な程真っ直ぐなリリックが並ぶ。

それから幾年。彼はHip Pop Boogie Chapter2というリリックを完成させた。あんな大人は違う、あんな姿見たくない!と声高に主張した彼は“大人”へと成長し、“罵り合い大会”ではなく、大きな愛と未来を描く“大人”へと成長した。


私は、この歌詞こそに、彼の生き方全てが詰まっていると感じた。この閉塞感漂う社会で、ただ真っ直ぐに誠実に、穢れず清廉潔白でいることは難しい。でもこのリリックを聴くと、彼ならできると。彼ならいつまでも真っ直ぐな主軸を失わないであろうと、信じてしまうのだ。信じさせられる言葉の力を持った男なのだ。櫻井翔という人間は。


でもそれでも、時たま思う。あの完璧な櫻井翔に、裏の顔があったら。ファンとしてそれは、恐ろしいことでもあり、また少し、期待してしまう所があるのも事実だ。

ほんの少しなら、あの美しい顔に罵倒されてみたい。と思ってしまう。女心は複雑なのだ。